今回は『ラフ新報』のコラム「磁針」に載っていた記事の紹介である。実に興味深い内容で、明日はわが身かと思わせるもので思わず頷いてしまった。
勤務先(シカゴ)の建物の完成待ちで今夏はずっと自宅勤務だったため、早朝の散歩をやめた分、毎日陽の沈む前頃に歩いて買い物に出かける。自分の持てる範囲で、2、3品でも雨さえ降らねば買いに行く。マーケットまでは片道1マイル。重い野菜やミルクなどの水物は自分で調整しながら下げてくるのだが、足を動かし、筋力を鍛え、など勝手に理由をつけて出かける。自力で下げられるのは10ポンドまでで、重いものはたとえ特売でも諦めねばならない。
先日、交差点を渡っている時、前方にある銀行の大きなウィンドウに、猫背の老人が写っていた。足元が少し頼りなく、疲れた様子でトボトボ歩いている。信号を渡り終えてウィンドウに近づいて思わずハッとした。なんとその老人は自分だったのである。そのおばあさんが自分だと分かった瞬間、私の背中はシャンと伸び、足に力が入って、大きく深呼吸をして歩幅を広げて歩き出した。自分が今より少し若かった頃、よく見かけて手を差し伸べていたシニアを、姿勢や歩き方を意識せずに歩いていた自分に重ねてみて、少なからずショックだった。お若いですね、などお世辞を言ってもらって悪い気はしないものの、現実は残酷なもの。今私は、年相応の82歳。そうして気を付けてみると、いすに腰を欠けても幾分前かがみで、腰を落として猫背になっており、情けないことにそれが非常にラクな姿勢であることに気が付いた。少し手遅れかなという気もするが、you tubeを開いて猫背を伸ばす体操など探している(9月21日付)。
聖書を読んでいると、これは自分の事だと思わせられる記事が盛りだくさんだ。その一つが、マタイ福音書にある主イエスの言葉である。「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか」(七・3~4)。自分のことを棚に上げておいて、人のことを云々する自分がそれである。自分は自分が見えないものである。それは教えられないと分からない。その自分を知ることが実は救いというものではなかろうか。
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