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Rev. Tsukasa Sugimura

存在することが、仕事だ

 マルタは、ふたたび「給仕」し、マリアは惜しげもなく「香油」を注ぐ。しかし、主イエスに甦らせてもらった彼らの兄弟、当のラザロは、食卓の参加者のひとりとして、ただ、そこに、座っているだけである。ラザロを甦らせてもらった主イエスに対する感謝の宴のひらかれた夕べの、ベタニア村のラザロの家での三人三様の姿です。今ここで、特に私たちの注目をひくのはラザロの姿です。彼こそは、この日、すべての人たちにまさって、かいがいしく働いて、主イエスに対する感謝を表すべきであったと思われるのに、彼ラザロは、ただ、そこに座っているだけです。しかし、これが彼になしえたいっさいだったのでしょう。彼は語らず、行動せず、沈黙して、ただ、そこに「いる」だけです。これいがい、しかし彼に何ができたでしょう。何をする必要があったでしょう。死人の中から甦らされたという前代未聞の出来事が、ほかならぬわが身に起こったこのラザロにとって、語りうるどんな言葉がありえたでしょう。彼の「存在」そのものが語るいがいには、発しうるいかなる言葉もなかったのです。彼、ラザロが、そこに「いる」ということ自体が、彼の言葉であり、行為であったのでしょう。「無為の深み」というものがたしかにあることを沈黙のラザロの姿は指し示している。言葉の威力でもない、行為の激しさでもない、ただ、そこに「いる」だけの一見全く無力そのものに見えるラザロの「存在」が、しかし、この世の権力の座にある祭司長らを根底から震撼させるのです。彼らはラザロを殺そうとはかるのです。無力をさらして十字架に死ぬかにみえる主イエスの比類のない証人として、ラザロは、今、独り、食卓に座しているのではありますまいか。(『津軽の野づらから』(鈴木和男、日本基督教団出版局、二〇〇一)

 これも鈴木牧師の聖書から読み取る深い洞察である。実に聖書から受ける感銘というのは底知れないものがある。だから聖書のメッセージは止められない。

 サイモンとガーファンクルの歌に有名な「サウンド・オブ・サイレンス」がある。沈黙の中にも聞こえる響きがあるというタイトルだが、ここでのラザロからは、無言の中にも神を讃える賛美が聞こえてきそうである。死よりの甦りには言葉も説明も要らない。存在とは本来そういう力強いものなのであろう。

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