敏代さんが無事に帰ってくることを願い、アーヴァイン教会では昨年末から連鎖祈祷を始め、礼拝でも毎週、彼女の癒しとアメリカへの帰国を祈ってきた。以来、意識の回復は望めないような状況でも、主のみわざを信じて、皆が祈って来たのだった。家族のいるアメリカにまさる安住の地は他にはないからだ。
一方、日本滞在中のジョゼットさんは、敏代さんがアメリカに帰ることができるよう、粘り強く医師に訴え続けてきた。何としてもお母さんをアメリカに帰して欲しいとの願いに応えて、ついに担当医師は、「敏代さんはご高齢で、体力も非常に弱っているので、長時間のフライトに耐えられるかどうか命の保障はないけれど、それでも構わないと言うのであれば良いでしょう」と言ってくれた。アメリカに帰ることは、当初より敏代さんの心からの願いだったからだ。
ついに2月8日(土)夜、ジョゼットさんと敏代さんは機上の人となった。機内の後部座席にストレッチャーを置き、カーテンで仕切りを作り、医師と看護婦が同行した。長時間のフライトに耐えられないかも知れないという医師の懸念に反して、敏代さんは持ちこたえた。三ヶ月ぶりの祖国アメリカだった。敏代さんの3人の娘さんのうち二人がLAXで敏代さんとジョゼットさんを出迎え、その後、救急車でラグナヒルズのサドルバック病院に搬送された。
翌9日の昼過ぎ、午後からの礼拝前に、僕は敏代さんの入院先に向かった。一般病棟のある一室にそっと足を踏み入れると、そこには3人の娘さんが揃って敏代さんのベッド脇の椅子に座っていた。ジョゼットさんが、他の二人に、「お母さんの教会の牧師です」と紹介してくれた。その後、僕は今回の敏代さんの帰国にあたって、彼女がどれほどご苦労されたかを何度も、何度も感謝をした。そして、彼女はそれまでの思いを一気に吐き出すかのように話し出したが、そこには、愛する母と一緒に帰って来ることができた安堵感が溢れていた。
敏代さんに話しかけると、顔を歪めるようにして口を小開きにした。何か言いたかったのだろうが、声にはならなかった。彼女には聞こえてはいる様子だった。僕は彼女との再会の喜びを感謝し、神の見守りと回復を祈った。それから六日目の十三日早朝、敏代さんは平安のうちに愛する主の元に帰って行った。
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