今回は弘前福音キリスト教会を訪れた時に、書棚に見つけた鈴木和男牧師の『津軽の野づらから』(日本基督教団出版局、二〇〇一)からの引用である。
「春、わずか三〇〇メートルほどにすぎないが、そこにはまことに見事な染井吉野の桜並木となる。いずれも老木ともいうべき樹々は歴史の古さを示すが、並木の奥に堅固な門があり、その向こうに敷地七万坪という国立療養所松丘保養園がひろがる。全国一三箇所につくられたハンセン病の国立療養所のうち、ここ青森がその最北のものだ。九〇年前の設立時よりここに隔離され、生涯を終えていった人々の数は一五二〇名を越える。骨になっても引き取られることのなかったその人々の遺骨は、園内の納骨堂に納められ、今も二六〇余名の人々が生活している。みな高齢化し、その歴史が閉じられる日も近い。『ここで亡くなっていかれる方々は、最期に、なんと言い残されるのでしょうか』と恐る恐る発した問いに返ってきた答えは、『みな、家に帰りたい、と言うのです』であった。『園のいちばん高い丘にのぼると、青函連絡船の出入りが見えたんです。そのドラの響きを耳にしながら、みんなもう帰ることのない故郷を思って哭(な)いたんです』とも聞かされた。らい予防法がようやく撤廃され、一九九六年以降も、故郷に戻れたのは、ここでもわずかたった一人だったという。春、ここの桜並木は流された幾千条の涙のゆえに見事に咲くのだが、門を背にする私の心に浮かぶ同じ病に生きた津田治(はる)子の二首がある。」
「命終(めいじゅう)の まぼろしに主よ顕(た)ちたまえ 病みし一生(ひとよ)をよろこばむため」(私訳・私の人生の終わりに救い主よ、現れて下さい。これまでの私の生涯が無駄ではなく、むしろ喜びだったことを知るためです)
「現身(うつしみ)にヨブの終わりの倖せあらずとも よししぬびてゆかな」(現世ではヨブの晩年のような幸いはなくても、神の祝福を信じて生きます)
この二首を読み、心が震えたのを覚えている。津田氏の痛みを和らげたのは、試みの中にあっても、「彼がわたしを試みられるとき、私は金のように出てくるであろう」(二三・10)、と訴えたヨブの信仰だった。そこに一縷の望みを託して生きてきた彼女の壮絶な信仰を読みとることができるというものである。
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