top of page
Rev. Tsukasa Sugimura

燃えよ、ホーリネス ②

 そのリバイバルによって、北米では2年間で千名の受洗者が与えられた。北米ホーリネス教団も、河辺の宣教によって救われた木田文治が始めたのだった。

 さて、セラピムには「燃える者」という意味がある。イザヤはその火を祭壇からもらい受けているが、祭壇では、律法の定めによって罪の贖いのために動物が切り裂かれ、捧げられ、祭司によってその周りに動物の血が注がれた。

 やがて新約の時代が到来し、バプテスマのヨハネは、イエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ一・29)と叫んだ。旧約の燃える祭壇は、後に私たちの罪の捧げ物となられる神の子羊、イエス・キリストの血がその祭壇の周りに注がれる預言的描写を指す。それは、他でもない、罪のない神の子羊として十字架を祭壇にして屠られるイエス・キリストの犠牲を意味していた。

 イザヤが火をもらい受けた直後、「誰が私たちのために行くだろうか?」という神の御声を聞いた。神は全能であるゆえ、お言葉で世界を変えることがおできになるが、こと、人類の救いに関しては、私たち一人ひとりにそれを委ねている。福音は私たちの人格を通して初めて伝わるからである。しかも、イザヤのように、自分はお役に立てる者ではないという、心が砕かれる経験した者を通して伝わるのである。そこで、イザヤは、神の叫びに対して、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と応えている。こんな汚れたどうしようも無い者であっても、私で良ければ遣わしてくださいというのである。 

 なぜ、イザヤが神の召しに応えることが出来たのかというと、滅びて当然の自分が、神によって生かされている恵みを、体験したからに他ならない。

 やがて、イザヤは9章において、救い主誕生のみ告げを聞く。それは「万軍の主の熱心がこれをなされる」(7節)とあるように、人の救いは神の熱心がそうさせるという。53章では、イザヤは十字架という祭壇に横たわるイエスを真下で見るかのように描写した。彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた~しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」(3~4節)。それは預言者であれば、誰でも見たい、聞きたいという経験であったが(マタイ一三・17)、それはイザヤの特権であった。

閲覧数:5回0件のコメント

最新記事

すべて表示

Comments


bottom of page